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12月いえば毎年お約束の「赤穂浪士」ですね [日本史豆知識]

「手柄を立てて死ねれば…」 赤穂浪士、茅野和助の遺書発見    (2011/12/14   産経新聞)

 元禄15(1702)年12月14日、吉良邸に討ち入りした赤穂浪士四十七士の一人で、岡山県津山市出身の茅野和助(かやの・わすけ)(1667~1703)の自筆とみられる遺書が同市内で発見された。討ち入りの覚悟と、残す家族への思いなどがつづられている。

 遺書(縦29センチ、横38センチ)は当初の討ち入り予定日の前日、12月5日の日付で、兄弟に宛てて書かれており、「手柄を立てて死ねれば幸せだと存じております」と、討ち入りの覚悟とともに「母上様に孝行を尽くされ、兄弟仲良く…」と、家族を気遣う文面もある。

 「(甥の武次郎を取り立てて)一人前にしたいと存じておりましたが…」と、心残りを感じさせる一文は、和助の遺書の写しが採録されている昭和6年の「赤穂義士史料・下巻」には書かれておらず、地元では真筆への期待が高まっていた。

 遺書は同市で医家を営んでいた仁木永祐(1830~1902)の生家から発見され、調査を委託された津山洋楽資料館(下山純正館長)が同市出身で東大史料編纂(へんさん)所の山本博文教授に鑑定を依頼。出身地で見つかったことや文書の構成などから「和助の自筆の可能性が高い」と判定された。

 茅野和助は津山藩の森家に仕えていた父が政争に巻き込まれて追放されたため、赤穂藩の浅野家に仕官。討ち入り時は36歳(切腹時は37歳)だった。得意の弓を持って吉良家裏門から攻め入った-と伝えられている。遺書は同館で展示されている。

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毎年12月にはお約束といったところの「赤穂浪士」の話がでてきますね。 今年は新作のTVドラマの話聞きませんね…「赤穂浪士」の討ち入りドラマはストーリー展開が解っていてもついつい見てしまうもんです。私は中村吉右衛門さんが演じた大石内蔵助が好きですね、渋すぎてw

300年前の赤穂浪士・茅野和助の遺書が見つかったそうですが、良く保存されていたと。 茅野和助の直筆とみられる遺書を画像で見る限りかなりの長文ですね、筆書きの文字はよくよく見ないとなんて書いてあるのかサッパリ解りませんw 現代文に訳してくれると良いんですけどね…全文訳しているブログ探してみます。

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名宰相とワースト宰相 [日本史豆知識]

名宰相1位は吉田茂、ワーストは鳩山氏圧勝   (2011/02/17  nikkansports.com)

「日本史なんでもランキング」第9回のテーマは「戦後の名宰相とワースト宰相は?」。ニッカンスポーツコムで実施したアンケートには各1499票が寄せられ、「名宰相」の1位には戦後復興に力を注いだ吉田茂が326票で選ばれた。2位は田中角栄、3位は小泉純一郎。「ワースト宰相」の1位は鳩山由紀夫で、全体の3分の1を超える577票を獲得する圧勝だった。2位は現首相の菅直人、3位は女性問題で辞任した宇野宗佑。(敬称略)

【名宰相ベスト10】

1位:吉田茂(326票) 戦前は外交官として三国同盟に反対する。終戦後、幣原内閣の外務大臣を経て、46年に首相に就任。サンフランシスコ平和条約を締結する。野党の質問に「バカヤロー」と暴言を吐き、第4次内閣は解散に追い込まれる。新聞記者に水をかけたという逸話も。いわゆる「吉田学校」から池田勇人、佐藤栄作らが育った。

2位:田中角栄(246票) 新潟に生まれ、高等小学校を卒業後に上京。専門学校で建築を学び、土建会社を設立する。72年、首相に就任。日中国交正常化を実現した。74年、金脈問題で退陣。ロッキード事件で逮捕されるが、その後も政界に強い影響力を持ち「闇将軍」と呼ばれた。

3位:小泉純一郎(228票) 01年首相に就任。「小泉劇場」と呼ばれたパフォーマンスでブームを呼ぶ。郵政民営化関連法案が否決されると衆院を解散、反対した議員の選挙区に「刺客」を送った。この選挙で自民党は歴史的大勝。

4位:中曽根康弘(159票) 82年首相就任。レーガン米大統領と個人的な「ロン・ヤス」関係を築く一方、「日本は不沈空母」発言が波紋を呼ぶ。国鉄、電電公社、専売公社の民営化を実現した。大勲位菊花大綬章を受章。

5位:池田勇人(82票) 大蔵官僚から政界入り、60年に首相就任。「所得倍増計画」を打ち出し、日本の高度成長を推し進める。大蔵大臣時代の「貧乏人は麦を食え」発言が有名だが、本当の発言はニュアンスがかなり違っている。

6位:佐藤栄作(61票) 64年首相就任。沖縄返還を実現し、核兵器を「持たず、つくらず、持ち込ませず」という非核三原則を表明した。これらの功績で、74年にノーベル平和賞を受賞。新聞記者を締め出した退陣会見も有名。

7位:岸信介(58票) 佐藤栄作の実兄。戦時中の東条内閣の商工大臣を務める。戦後、A級戦犯として拘留されるが釈放。57年、首相就任。60年、日米安保条約改定で日本中が騒然となり、同条約の自然成立後に辞任する。

8位:石橋湛山(56票) 戦前は東洋経済新報社を拠点にジャーナリストとして活動。リベラルな言論で知られた。戦後、政界入りし、56年に首相就任。直後に軽い脳梗塞で倒れ、療養のために退陣する。65日の短命内閣だった。

9位:三木武夫(50票) 74年、田中角栄内閣が金脈問題で総辞職をすると、いわゆる「椎名裁定」で首相となった。「クリーン三木」として人気を得るが、自民党が一丸となった「三木おろし」で退陣に追い込まれた。

10位:小渕恵三(47票) 98年首相就任。庶民的な人柄で親しまれた。電話魔で知られ「ブッチホン」は流行語に。景気対策に膨大な税金をつぎ込み、自らを「日本一の借金王」と称したことも。00年、在任中に脳梗塞で倒れた。

【ワースト宰相ベスト10】

1位:鳩山由紀夫(577票) 「宇宙人」「ルーピー」など形容多数

2位:菅直人(289票) 国債格下げに「疎いので」でまた窮地

3位:宇野宗佑(144票) 「指3本」スキャンダルで69日短命

4位:森喜朗(102票) 「サメの脳みそ、ノミの心臓」とも

5位:小泉純一郎(101票) 構造改革、パフォーマンスに賛否両論

6位:安倍晋三(89票) 所信表明演説の2日後に突如退陣表明

7位:村山富市(52票) 阪神大震災の初動の遅れが批判を浴びる

8位:麻生太郎(41票) 「踏襲」をフシュウと読んで国民あぜん

9位:福田康夫(17票) 「あなたとは違うんです」の印象強烈

10位:細川護煕(15票) カネの問題で政権をあっさり投げ出す

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日刊スポーツ紙のアンケートには納得できました。ワースト宰相選出はだれでもが思う事なんですねw


不法占拠だとwwwwwwww [日本史豆知識]

中国紙、「沖縄は日本が不法占領」との論文掲載   (2010/09/19  産経新聞)

 19日付の中国紙、環球時報は琉球(沖縄県)は明治政府が19世紀末に清国から奪い取ったもので、日本政府は今も沖縄住民の独立要求を抑え込んでいるとの趣旨の署名入り論文を掲載した。

 中国大陸に近い尖閣諸島(中国名・釣魚島)については中国領であることは明白で「日本には中国と話し合う資格もない」と結論付けている。

 筆者は在日中国大使館勤務経験がある商務省の研究者、唐淳風氏。

 論文ではかつての琉球王国住民の大部分は福建省浙江省、台湾付近の出身で、言葉も制度も中国大陸と同じだったと断言。

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( ´,_ゝ`)プッ 中華人民共和国は、明朝・清朝時代を否定しているのではなかったでしょうかねぇ? 

不法占拠だってw、薩摩藩が琉球に侵攻したときに放置したのは明朝でしたねw

不法占拠といえば!チベット・ウイグルですょねw

沖縄在住のブロガーさんが、「琉球王国史」について紹介しているのがありましたので転載させていただきます。  (中・高校の日本史で琉球王国史についての記述は少なめでほとんどスルー状態だったような…記憶があります。)

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琉球が中国の隷下に入ったのは1372年、明国皇帝が琉球に

朝貢を求めてきたことから始まったとされている。

当初、恐る恐るこれに従った琉球はその莫大な返礼を見て驚嘆した。

以後、これを「唐一倍(トーイチペー)」(利益が甚大という意味)と呼んで

10割近い儲けを甘受するようになる

甘受→意味:やむをえないものとしてあまんじて受け入れること。

戦前のジャーナリズムではこの華夷秩序への参入が沖縄の県民性から

尚武進取の気概を奪ったとさえ評している

尚武進取→意味:武道・武勇を重んじること。みずから進んで物事に取り組むこと。

戦前のジャーナリズムは今の常に沖縄に同情的な風潮と違い

ダメなものはダメと堂々と批判できていた。

明は建国以来鎖国政策をとっており、外国船の出入港も朝貢船に限定した上

冊封国に支那人を在留させ朝貢貿易の政務を担当させる朱明府をおいた。

これは冊封国に支那人を在留させ、その国を間接支配することにある。

そして、琉球は薩摩藩が侵攻する1609年まで約237年間、その監督下に置かれる。

那覇市内には久米と呼ばれる地域がある、ここは14世紀以来中国の居留地域と

なっていた。

明が滅び清国が成立した時、満州族の支配を忌避して明人、すなわち漢族の

三十六姓の家族がこの島に移民してきたとされる。

以下、久米村の支那(中国)人のことを久米村人と書き、久米村の士族を久米士族

元々沖縄に居た士族を土着士族と書きます。

ちなみに久米村人(久米三十六姓)とは簡単に説明すると

「琉球王国だけでは成しえない航海、造船等の技術を持ち進貢に
不可欠な外交文書の作成、通訳、商取引にあたった。
琉球王国と中国や東南アジアとの海外貿易をになったエリート集団と
技術者の集団で構成されていた「久米三十六姓」は琉球王国の官吏や
学者などに抜擢され王朝時代の礎を築いた人のことです。

琉球で名政治家といわれる蔡温(さいおん)や程順則(ていじゅんそく)も

この久米村の出である、ことでもその優秀さが分かると思う。

ちなみに久米村では19世紀になっても中国語が話されており

久米村人は日清戦争の終了まで沖縄をことごとく中国圏に留めようと画策していた。

では、琉球王国の王と久米村人との関係はどのようなものだったのだろう?

琉球王尚泰の四男尚順はその遺稿で首里王城の正月の光景こう回願している。

「五族の大旗を建て、国王が北京の紫禁城に向かって遥拝される式であって
設備装備は純粋の支那風によって挙行され、左右より羽扇を翳して国王が進み
来られると同時に黄冠、紅冠をつけし唐栄(久米村人)の連中ばかりの活動で
黄色のクロスを掛けたテーブルの上には龍紋彫の黄金の香炉を置き、海南に
沈香を薫いて礼拝を行う。(中略)黄冠をつけた久米の先生達が
ケーウ、ケーウというのは中国語の叩頭のことだ(後略)」とある。

こうして首里城では欧米人が世界で最も屈辱的な礼式と批判した

三回跪き(ひざまずき)九回地面に額をこすりつける三跪九叩頭の礼が

執り行われている。

三跪九叩頭の礼↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%B7%AA%E4%B9%9D%E5%8F%A9%E9%A0%AD%E3%81%AE%E7%A4%BC

三跪九叩頭の礼は冊封国の中でも実際に滅ぼされた朝鮮と琉球王国でしか

やられていないのだが、滅ぼされた朝鮮はわかるとして、なぜか滅ぼされて

てもいない琉球王国もやっていたのである(?_?)。

首里城にある守礼門に掲げてある「守禮之邦」の守禮とはこの三跪九叩頭の礼の

ことを言い、之邦とはちっぽけな国という意味である。

今でも中国人が日本人のことを小日本(シャオリーベン)と蔑称で呼ぶが

その元祖が琉球王国にあったことは感慨深いものがある。

次にこの支那(中国)から移民である久米村人がいかに琉球王府の政権に固執したかを

物語る歴史的な事件がある。

それが19世紀初頭に起きた官生騒動(かんしょうそうどう)である。

官生騒動は、官生の一件で久米村人が騒ぎ出したストライキであって

近代琉球史上の一大事件である。

これは、琉球近代の名君尚温(しょうおん)の時代に、従来久米村の方から

支那の国子監に出していた官生四人の中から二人だけは土着士族から出そう

とした時に、久米村人がいたく反対をとなえ、遂には大騒ぎをやらかした

事件である。

この事件を書くに先立ち、少し官生の歴史を述べることにする。

琉球が始めて支那に通じたのは、明の光武の5年である。

当時琉球では三王が鼎立(ていりつ)して相戦っていたが

鼎立→意味:鼎は「かなえ」と読み古代中国の金属製の器こと
      ふつう3本の脚がついている。王侯の祭器や礼器と
      されたことから、のち王位の象徴となった。
      鼎立とは鼎(かなえ)の足のように、三者が互いに
      対立することを言う。

時の中山王察度が明国に通ずるに及んで、他の二王もまた争そうて

臣を朱明に称し、二十年後の(光武二十五年)中山、南山の二王は始めて

王子及び陪臣(ばいしん)の子を明国に遣わして太学(たいがく)に入れた。

陪臣→意味:臣下の臣のこと。

これがそもそも官生の初である。

官生とはやがて今日の官費留学生(国費留学生)のようなものである。

官生の歴史は古文書に詳しく書かれているが琉球王尚貞王(しょうていおう)の

冊封時代の時に土着士族らを最初に派遣したのだが、官生の成績が悪く実に遊学

学びになれていない貴公子の連中は到底長期の就学に耐えないで、皆ことごとく

失敗に終わっている。

そこで尚真王(しょうしんおう)が中央集権を断行した頃、王府は土着士族の

官生を廃して、久米村人の中から官生を出すことにした。

彼らは琉球に帰化してまだ百二十八年にしかならなかったから、彼らが支那に

留学するのは、あたかも植民地人が本国に遊ぶ心地がしたのであろう。

なるほど久米村最初の官生四人は五年の月日を経て国子監を卒業して帰っている

次にいった官生四人も七年間の修行に耐え無事に帰ってきている。

それから琉球の教育権は全く久米村人の掌中に帰したのである。

ちなみにここで面白い話があるが、優秀な久米村人もこれから百年経つと

琉球化がすすみ、土着士族の怠け心がうつり中華の文物を浅く習得し琉球に

帰り愚民たる土着士族に教え込んでいたという。

ここで愚民と書いたのは私が歪曲したものではなく当時の状況を書いた漢文に

そう書いてあるものである。

かくして国子監で学んだ官生の成績は思わしくなかったが、自費又は半官費で

福建(今の福建省)で学んだ連中の成績は実にはかばかしかった。

程順則(ていじゅんそく)や蔡温(さいおん)は後者に属すべき人で

久米村の運命は実はこの人々によって繋ぎ止められたのである。

そして程順則、蔡温の時代は久米村の全盛時代であって、また琉球の全盛時代

であったと沖縄文学の祖、伊波普猷(いはふゆう)は言っている。

特に政治的天才なる蔡温は格外から抜擢されて四十七歳で

三司官(さんしかん)となった。

三司官→意味:士族の最高位、琉球行政の最高責任者

久米村の蔡温は沖縄の蔡温となったのである。

これで初めて教権と政権が一致したのである。

私のブログの中に

1392年に琉球に帰化した人の290年後の子孫である
蔡温(1682生まれ)まで「寄留民」というのは
あまりにもお粗末です。

とうい意見があったが寄留民である久米村人は何年住んでも支那人であり

土着士族とは一線を画した存在である。

現に蔡温が三司官になったときには、門閥を重んじる土着士族には

あくまでも彼の政治に反対する意見があったが自分に反する

平敷屋朝敏ら土着士族を蔡温は処刑している。

この類の事件は琉球王国時代、多く存在していて

近年で言えば、1859年に行われた牧志・恩河事件(まきし・おんがじけん)

がそれである。

その十七年後にも同様の事件が起こっている。

伊江王子朝直(いえおうひちょうちょく)、宜野湾親方朝保その他随行員三十名が

東京に派遣され天皇に歓迎され祭に、天皇が「国王尚泰を琉球藩主となし

華族に列する」と発言されたことから、日本からの冊封をうけたとして久米士族は

宜野湾親方を漢奸(はんがん)と批判し、そして三司官の公職から追放し

漢奸→意味:中国に対する反逆者、売国奴

さらに迫害し、それから四年後、明治九年にこの世を去った事件である。

牧志も宜野も長命であれば廃藩置県後の沖縄の振興にいかに

寄与したことであろうか。

話は戻り、自分に反する土着士族をことごとく処刑した蔡温は思う存分に

琉球王府を経営した蔡温であったがその活躍ぶりに、危機感を持つものが表れだした。

今まで、官生つまりは琉球王国の教権(教育権)を独占していた久米士族だが

政権は土着士族にあった。

だが、その政権までもが久米士族に奪われようとされていることに

危機感を抱いたためだ。

土着士族は、久米村から第二の蔡温を出るのを防いで、土着士族の方から蔡温を

出す準備をしたのであろう。

由来政治に熱中する人民は政権さえ握れば、教権の如きは何人の手に委ねても

差し支えないと考える傾きがある。

数百年間政権を握っていた土着士族も、教権は全く久米村人に委ねて顧みな

かったのである。

ところが、蔡温の活動を目撃するに及んで、初めて最も賢き政治は

政権と教権とを併せ握ることにあるということに気が付いてこの度の問題を

引き起こすに至ったのである。

土着士族の政治思想の一進歩であると言えるであろうが、まこと今にも通じる

教育をないがしろにする沖縄社会の根底を見た気がするのは私だけであろうか?

政治闘争に一生懸命になり、教育をないがしろにする今の沖縄のその姿勢は

500年も前の琉球王国時代にも同じことが言えているのは苦笑せざるえない。

話は官生騒動に戻り1801年、尚温王は琉球王府の教育権に主体性を

もたすべく首里に国学を作り、官生四人の枠の二人を土着士族から出そうとした。

これを知った久米士族や久米村人は猛烈に反発し、暴動がおきたのだ。

そしてこの年、尚温王は十九歳にして没する、これには久米士族から毒殺

されたという説も強く残っている。

世継ぎの尚成王も三歳にして立ったが、僅か数ヶ月で死に、尚温王の血統は

全く途絶えている…。

かくして琉球のまた闇黒な久米士族、久米村人が跋扈する時代に

再び戻ることになる。

琉球王国史は土着の琉球士族vs支那(中国)からの寄留民久米士族及び

久米村人という見方をすれば、かくも面白い見方が出来る。

http://itokazukeiko.ti-da.net/e2429973.html

中国のご都合主義に同情するな!

 


「日の丸」制定の由来 [日本史豆知識]

ネットを徘徊中に見つけました。鹿児島県鹿児島市の照國(てるくに)神社で、1月27日、国旗「日の丸」制定の由来碑の除幕式がおこなわれたそうです。九州内の事なのに、私の地元新聞では掲載されなかったような…左傾新聞系列だもんねw

日本国国旗の「日の丸」制定由来は、「日の丸」は1854年、島津斉彬薩摩藩主が日本の総船印と定めた。1860年「国旗」に昇格、明治三(1870)年1月27日に明治政府が改めて国旗と定めた。
由来碑を奉納したのは(財)米盛誠心育成会の米盛庄司理事長。

照國神社公式ホームページ「日の丸」制定の由来碑 建立
http://www.terukunijinja.jp/page96960.html

「日の丸」制定の由来碑の記念式典は国がするべきことなんだろうけど、今の鳩山内閣は「日の丸」が嫌いなようですからね!島津斉彬公の功績は気にも留めないんでしょうね。昨年、日本国国旗「日の丸」切り接ぎして即席民主党旗を作ったぐらいですから…罰当たりもんです。

☆追記☆
私が時々覗きにいく、「ねずきちのひとりごと」というブログがあります。エントリーに「国旗の由来と掲揚」というものがありましたので紹介します。
 http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-768.html

不思議に思うことがありますね。学校では日本国国旗の由来のこと左傾教師が話さなくても毎年2~3月卒業式前後に暴走族が爆音たてて走り回っている彼らのバイクやヘルメットにはなぜか?日の丸のステッカーが貼られているを見かけます…世間への反抗心なのか?左傾教師が教えもしないのに自然体に「日の丸」ステッカー…不思議な現象ですわw



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